『さびしくない』

朝。カーテンを開けていた。だから、日光が直接顔にかかる。

研修旅行、二日目。絶対に寝坊ができない。スマホのアラームを四つ連続でセットして、モーニングコールの設定も完了。カーテンも開けておく。執拗なアラームとモーニングコールと日光。

これで起きられないはずがない。絶対に大丈夫。

朝五時四十五分くらいに目が覚めた。しかも、頭がシャキ、としている。気持ちがいい。

ふとLINEを見る。

 

「カネコ新曲!!!!」

 

カネコアヤノが好きな奴からの、LINE。

すぐさま公式Twitterを見る。

 

"4.17.2024 digital release 『ラッキー/さびしくない』"

 

脳内に濁流が駆け巡る。衝撃。なんと形容してよいのか判別の付かないドブが脳内で踊り狂う。興奮。そっと、安物のワイヤレスイヤホンを耳にあてがって、再生する。三重県のよくわからない場所の、ビジネスホテルで。

 

渦。濁った渦だ。灰色の渦の中に、カネコアヤノの声が響く。

 

動けない。ぴったり絡め取られる。どう聴いたって、彼女の歌声だ。"明日には皿洗いをしよう"

でも、今までの曲から感じたことのない不穏さが常に付きまとう。坦々麺とソフトクリームを一緒に食ってるみたいな。

"無理ない範囲で君の隣にいたいだけ"

浮いているみたい。前作の『タオルケットは穏やかな』は、完璧に脱色された水の流れだ。その流れのどこかに行き着いたはての、カネコがいる。ただ、立っている。

 

踊り出したくなるような。幸福そのものという名のイントロ。

 

"ダサい帽子を隠して電車に乗った"

 

世界の可能性に想いを馳せる。なんだか生まれたわけだけど、カネコアヤノの歌を聴ける生というものがある。ただ、それだけだ。さ「び」しくない。寂しくない、じゃなくて。さびしくないときは、絶対に寂しい。でも、それでいい。ずっと叫び続ける彼女がいる。穏やかな流れの中に、濁流の中に確かに潜む歌声とずっしりした言葉たち。不穏さからの解放。緊張からのカタルシス。いきなり晴れる。悩みに悩んだ末に、もうどうしようもなくなってどうなっちまんだろうとか思っていたときに、喉に絡まっていた痰がいきなりスッと飲み込めて、全部がほんの一瞬だけ、一瞬だけ晴れる、あの瞬間。悩みの軸足からややズレるところに潜む奇跡みたいな自由。突き抜ける。確実に。歌が突き抜ける。黒と灰色二色で混ぜた絵の具と、突き抜けるカネコアヤノの存在と温度。気がついたらずっと聴き続けている。ずっと。頭の細胞の切れ目に、ピタッと入り込む。液体そのもの。世界を塗り替える液体。絵の具ではないんだけど。渦そのものに、のまれる、とかじゃない。一緒に渦になる。うねり続ける。

生きるとは、うねりまくることだ!

"今夜は特に冷え込むね"

さびしくなくなった彼女に想いを馳せる。このうねりのなかで突き抜けて、さびしくないと歌うカネコアヤノについて。それは世界が蠢いているということであり、人生が動いているということであり、人間が生きていることそのものであり、ただおれとそれ、おまえだけになる空間と瞬間という何よりも絶対に尊いそれ、つまりは幸福ということだ。

"最近は 最近は さびしくない"

ま、ええかと思えるようになった

「限界まで追い込まねばならない」

「やれる限りやらねばならない」

こうした言葉で、今まで自分をやたらと追い込んできた。しかし、最近は全部「ま、ええか」である。

オンラインで申し込んだバイトを限界までやり込んで身体が動かなくなった。

自分で始めた店も、儲けを度外視して自分なりの正しさを追求するあまり首が締まり、潰した。

受験勉強も「せねばならぬ」の圧力をひたすら自分にかけすぎて逆に何もできなくなり、落ちた。

思春期から青年期にかけては、自分で自分を縛ることとの闘いの日々だった。最近やっと、そこから逃れられたように思う。「まあ、しゃあない。ええか。のんびり。」こんな感じで逃げられるようになった。二十代も中盤を過ぎてやっとこさこの結論に至るのもまあアホなのだが、若い者は往々にして視野狭窄で空回りするのだから仕方がない、まあええか、と思うわけである。いまはとある会社に新卒で入って、研修を受けている。まあシャチョーとかいう奴がやたらと熱血漢で、ものすごい根性論をブチかましていた。たぶん、二年前の自分であれば「こうせねばならぬ」の呪文で、自分を縛り付けひどいプレッシャーを感じでいたが、「まあこのおっさんもどうせ死ぬし。あくまでコイツの人生の話でしかないし。ある程度は従いつつ、自分の自由は絶対に確保したうえで働こう。まあ、ほどほどに。」と思える。自身の自由は自分で確保するしかなく、ありきたりな言葉だが自分の人生の責任は自分で背負うしかないのである。「尽くす」「神経症的に張り詰めて相手の為に頑張る」ことが自己目的化すること危険だと、魂が居場所を求めてフラつくことが一番ヤバいのだと、今までの経験によって結論付けることができた。いわば、悪いヤツ、ヤバいヤツ、潰そうとしてくるヤツ、色んな魑魅魍魎有象無象に対するワクチンを、ウニャウニャゴミゴミしたここ何年かの意味不明な日々の中で摂取した、とも言えよう。

読んでも大して面白くもないだろうことをつらつらと書いたが、まあ結論自分という魂の器にできることなどすげえ限られているのであり、他人がどう言おうとまあ方向性というか傾き具合、みたいなものはある程度変えられないのであり、危険からは適度に離れ、学べるところはそこそこに学んでおき、まあひとまず健康に生き、のらりくらり、チャンスが来ればとりあえず飛びついてバットを振っておき、巡ってこなくっても自分の腹の中に足場を組み込んで、そこで踏ん張ってそこそこ楽しく生きていけばよいのだ。

というか、気張れば気張るほど何も成すことができず、求めると得られず、自分を動かそうとするにつれ段々と何もできなくなる、ということはあるていど、真理だといえるように思う。というわけで、スーツを着ているときは気を張っているが、魂売れやと凄まれてもま、知らんわボケといいながら屁をこいている。

そして、こうして地に足を付けると、魂がどっしりと臓器の上に乗っかって寛ぎ出すのだ。

これが息をすること、つまり喜びそのものであるともいえる。

洗濯機みたいな揺れー屋久島からトカラへー

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鹿児島の南、屋久島から船でトカラ列島へ行った。デカいフェリーが火災により使用不能になり、小型船の臨時便にて出発。俺を除いて乗客は五名しかいなかった。船は小さい。よくある漁船くらいのサイズ感。船長さんが「今日は揺れるよ〜。」と明るく忠告してくれた。ふーん。ま、船旅楽しむか〜。

ナメてた。ガチでヤバい。「揺れる」とかじゃない。浮いてる。みんなユニバを想像しよう。遊園地ならなんでもいい。ジェットコースターがあるね。てっぺんまでガタガタ登っていって、落ちるあの瞬間。ふわっと浮くあの感じが、断続的に続く。延々と。ハンパない。ナメてた。しかも、ときおりマジで船が浮いて、窓ガラスが全部海水で見えなくなることもあった。マジで沈没するかと思った。本気の船酔い。寝ようにも、座ってるケツが宙に浮くので眠れない。座って耐える。ドン!下から衝撃ハイ浮く!沈むハイ、ドン!浮く!沈むハイ!ドン!(以下、永遠)

おれは乗り物が好きだ。基本的に酔わない。数多フェリーも乗ってきたが、船酔いもない。しかし、強風時の鹿児島南部沖合の小型船舶はレベチだ。胃が「ピピクン、ピクン」と痙攣し始めた。変な生き物を腹に飼ってるみたいだ。ダメだ出る。吐く。しかし、エチケット袋を手に取る気力すら起きない。ドン!浮く!沈む!ドン!浮く!ハイ船ごと浮く!海水入ってくる!うわ〜とみんな悲鳴をあげる、の中で力を振り絞って袋をサッと掴む。ギットギトの、天下一品のスープみたいなマジモンの脂汗がタラタラと身体の奥底から、額を伝って滲み出てくる。じんわりと。しかし、何も食ってなかったのが幸いしたのか、ゲロは吐かずに住んだ。お好み焼きとか食ってなくてよかった。状況をどうにかしようと、一旦横になってみる。なりふり構っていられない。しかし、頭をシートにつけると揺れがダイレクトに伝わってくる。グエー!きもちわりー!殺してくれ!そんな気持ちになってくる。うう。本当に死ぬんじゃないかと思ってしまう。沈まないよな…?沈没、しないとはわかってるけど、もしものことを本気で考えてしまう。やだ!死にたくない!絶対ヤダ!悪い方向に考えるとより気分が最悪になってくるので、壊れたテントの修理方法を必死に考えてみる。昨日の強風で、ポールの設置面がバキッと折れた。どうやって直そうかな〜と考えているとややマシになるもののドン!ケツ浮く!ハイ着地頭部ガラスに強打!マジで動けん。エグい。やはり座ることにする。しかし、こう、本気で命の危機を感じる体験を、旅先でするのはこの半年で二回目だ。なんか、もうこういうのはいらないな…。日常の素晴らしさをしみじみと噛み締める。大事な人が、ゆらりと、壮絶な揺れの中で脳裏に浮かぶ。会いたい。普通に過ごしたい。

気がつくと気絶するように眠りに落ちていた。船は途中の島に寄港しており、「じゃあ休憩します〜。トイレ行きたい人は行っといてください!」と船長さんが呑気に言う。ふらっふらの足で、なんとかトイレに行く。同乗していた老夫婦に「可哀想に…。」と心配される。多分顔面蒼白だったのだろう。「いつもこんなに揺れるんですか?」と聞くと、「まあ波があるとこんなもん。」と涼しげな返答。いや、平気なんだ…。人間の適応能力って凄い。

しかし、出航後はなんだか慣れてきた。車のサスペンションみたく、揺れの周期に合わせて身体の位置をズラし、ある意味波に乗ることもできるようになった。いや、イケる。諦めなければどうにかなる。しかし、たまにデカい波に乗り上げて船がふわ、と浮く瞬間だけはたまらなく恐ろしい。それにしても、船ってよくできてんな…。ちゃんと転覆しないようになっている。

なんやかんや、耐えて目的地の「中之島」へ到着。荷物置き場に置いていたリュックは海水で水浸しになっていた。マジかよ。海水入ってたんかい!まあ、生きてこれたからヨシ。そして船長さん、マジありがとうございました。

荒波に揉まれる、とはまさにこのことを言うのだろうな。4/1から正社員として働くことになるわけだが、会社員人生はこれより穏やかであってくれと、ひっそり願う。

(2024/3/25)

大分県 中津の料理屋 五百円の定食

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中津の料理屋。十二時頃から約一時間滞在したものの、誰ひとり入ってこない。客は俺だけだ。今日は風が強く、列車も遅延運休が続いていたのだが、風でドアがバタバタと動く。客が来たかと思えば、ただの風の仕業だ。

定食、なんと五百円!ホワイトボードでニョロニョロと、小さく書かれた「日替わり」メニューがずらり。魚の唐揚げを注文。

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丸々一匹!?五百円!?おばあちゃんが一人だけでやっている店。テレビ台の下に雑誌が整然と並べられており、暇つぶしに読む。そして、美味い。めちゃくちゃ美味い。五百円か…。お婆ちゃんがひとり…。色々と察するものがある。俺も飲食店やってたわけだし。こんなんほぼ儲けゼロやな。

目の前にショーケースがあり、アサヒのビールの大瓶と小瓶がこちらを睨む。^_^^_^

葛藤。約十分は悩んだ。いや、昼からそんな…。こんな大分の味わいしかねえ定食屋で、昼から一人でビール?孤独のグルメでも気取っているのだろうか。いやはや…。

というわけで、小瓶を注文。これがビックリするくらい美味い!ヤバいな、ハマってしまうぞ。こう、発酵させた麦汁を飲んでいる、という感覚がメラメラと湧いてきて、身体が原初の喜びを感じている。人類が初めてアルコールを口にしたとき、おそらくこういう感慨だったのだろう。

 

お会計。俺は千円札を白髪の老婆に手渡す。半分酩酊状態で、百円玉を受けとる。酔いのせいではない。これは現実だ。定食を食いビールを飲み、百円が返ってくる。お釣りの到来。遥か彼方からの、到来。

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「大師食堂」

https://maps.app.goo.gl/1LyYGDdsaun2NdvK9?g_st=ic

(2024/03/20)

日記 3/11

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飲み会の場所を勘違いして、新宿に宿を取ってしまった。チャリを漕ぎ終えたあと、即高校の頃の同期四人で集まって飲んだ。そのうちの一人は一緒に漕いだ同志だ。他の二人と会うのは実に二年振り。しかし、つい最近会ったばかりかのような錯覚を覚える。落ち着いた時間。全てを忘れて、会話に没頭する。卒業からはや八年が経とうとしているが、みんな何も変わっていない。そして、俺の魂の居所はここにあるのだなと再確認する。不安定な思春期を過ごした空間。思想が、人格が最後に完成した異空間。ふらふらのまま、ゴミと等しい新宿という街の宿に帰る。路地では、ネズミが闊歩する。終わっている。マンションの前ではカップルが熱いキスをしている。勘弁してくれ。しかし、なぜ赤の他人のいちゃつきにはこんなに腹が立つのだろうか?

やはりこの猥雑さと喧騒は東京にしかない。大阪には存在しない。大阪は丸い。し、まだ膜みたいなものがある。でも東京は棘そのものだ。痛い。

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チェックアウトして、外に出るとカンカンに晴れている。やはり都会には晴れが似合う。

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とてもいい気分でチャリを漕ぎ、返却し、歩いてそのまま喫茶店に行く。『珈琲ショパン』という店だ。ほんのり木目調の店内に、暖かい照明が映える。ステンドグラスがぼうっと光る幻想的な空間だった。そして結構な音量でクラシック音楽がかかっている。あんまり詳しくないけど、店名にある通りショパンなのだろうか。恐らく、ご夫婦で経営されているのだろう、奥様と思しき方がメニューを置いてくれた。この重厚感よ。東京の歴史全てを背負っているかのような、その重さ。「ホットサンドは一グループ一個まで」との但し書きがあり、ということは名物なのだろうと合点し、ホットサンドとブレンドコーヒーを頼むことにした。「コーヒー」の隣にはとても濃く淹れてある旨の注意書きがある。何もかも重い。良い。この重さにアテられるために、喫茶店に来ていると言っても過言ではない。

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茶店を出る。音楽を聴きたい。天気の良い街なんて、音楽を聴いて歩くしかないのだけど、先週東京に来たときになくしてしまった。俺は何回ここに来るのだろうか。そして、何回イヤホンをなくすのだろうか。歩いて、ヤマダ電気へ行く。途中に釣り堀がある。お昼時のサラリーマンが歩く。やはり別世界だ。日本の中に存在する、別の日本。

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イヤホンコーナーに行く。それにしても、iPhoneからイヤホンジャックが消え失せたことを未だに腹立たしく思う。前はワイヤレスイヤホンだったから、今度は有線にしようと思ったのだけれど。あんな、変換用のにょろっと生えた白い塊なんてつけてられない。しかたなく、ワイヤレスコーナーへと向かう。

種類は豊富、この間三千円のものを買って後悔したので、せっかっくだし良いものを、と思って眺める。六千円くらいのものを適当に買おうとするが、思いとどまって試聴することに決めた。前買った三千円のヤツは、千葉から歩いて大阪に帰ろうとした二年前の三月に、謎のディスカウントショップで買った千円のものより音質が悪かったのだ。おそらく、六千円になったところで大差ない気がする。そして、千円のイヤホンを二年も使い倒したのだから、もう少し良いものを買ってもいいだろう。タダ同然だったなと、思う。

そして、六千円のものは音質が微妙だった。シャカシャカしすぎというか。イヤホンコーナーにはウエットティッシュがあったので、丁重に掃除をしてから耳にはめた。しかし、何もふかずに耳にはめる猛者もいる。赤の他人と耳垢を共有できるその胆力に絶望する。そういうやつが手を洗ったあと、律儀にアルコール消毒をしていたりするものだから、世の中不思議なものである。

結局、一万円以上のモデルを買った。明らかに違う。耳元でライブが始まったみたいだ。しかも、人生で初めてノイズキャンセリングを体験したのだが、衝撃だった。こんなに音楽が、雑踏の中でもクリアに聞こえるとは。世界中全て、色んな場所が俺だけのダンスステージと化す。革命だ。多分、空間の意味がまるっきり作り替えられることを革命と呼ぶのだろう。なんとなくそう思う。

ご機嫌に、俺はイヤホンを耳にはめて歩く。歩いているうちに、ふと「今日は川崎競馬の開催日だったな」と思う。というわけで川崎競馬場にいく。

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今まで園田、姫路、名古屋と行ってきたが、ここ川崎競馬場が一番デカくて綺麗だった。馬場のど真ん中では子供が遊べるキッズスペースがある。馬が走り、おっさんが叫ぶ中で子供が悠々と遊んでいるの、なんかウケる。

ひとまず名物らしき「もつ煮」を注文。暴力的な量のもつがぶちこまれている。

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俺が旅行中に競馬場を訪れているのは決してギャンブル中毒だからではない。競馬場といえども、場所によって雰囲気が全然違う。地方に行ったとき、地元民御用達の飲み屋にでもいくとその土地のありようがなんとなく感じられるように、競馬場もそうだ。「賭け」という、人間の欲望と感情が剥き出しになる空間にしかない、澱、のようなものがある。むちゃくちゃな怒号からしか味わえない土地の風というものが、やはり存在する。というわけで、その風土を感じつつ、あくまでついでにレースに賭けているという次第だ。こう、周りの人間と同じことをすることによってしか得られない、真の理解、みたいなもんだ。

 

ボケが。全部負けたわ。カス。二度とやんね。てかなんであんな苦労してチャリで東京まで行っていま川崎おんねん。神奈川県やぞ。昨日あんなに、血反吐を吐く思いで多摩川超えてゲロ吐きそうになりながら頑張ったのに。あんなに必死に東京都にくらいついたのに、なんで電車乗ってアッサリ逆行してんねん。もはやゴール川崎でよかったやんけ。てか全然当たらんやん。ボケが。

やめよう、競馬。

でも、川崎競馬場の怒号が今の所一番凄かった。次は高知あたりに行きたいな。高知の風を感じに、ね。断じてギャンブルやりに行くわけではない。

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そして、部活のOBに勧められて浅草の『駒形どぜう』へ。どじょう鍋定食を食う。四六〇〇円。高え。どじょうはぶっちゃけ風味が無い。雰囲気代って感じ。ファーストフードかよ、てくらい一瞬でどじょう鍋が出てくる。まあ体験としてはアリかな。

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話は変わるがチャリ漕いで大阪から東京まで来たとき、道中スーパー銭湯に連泊してたんだけど、その魅力にハマった。こう、独特の風情がある。説明がめんどくさいから行ってくれ。ババアが一人でやってる田舎のガチで古くい喫茶店にある趣きが存在する。こう、味があるんだ。行ってくれ。泊まれるスパ銭独特の客の喜ばせ方、もてなし方があり、ある種のテーマパークと化してるんだよな。まず風呂の種類がやたらと多い。あと古い。ゆえに大阪の水春とか、都市部のスーパー銭湯みたく綺麗にして寛がせてカネ取る、というより「オラ!でけえ風呂いっぱいだ!あとなんか遊べるとこいっぱいつけといたぞ!ゲーセンメシ酒アイスなんでもある!漫画もある!テレビも見れる!岩盤浴もつけといた!日焼けマシンもアカスリもマッサージもあるぞ!でかくてプールみたいな風呂も作った!サウナ八個ある!」みたいな、娯楽のドカ盛り定食って感じがする。快楽を詰め込めるだけ詰め込んでみました、みたいな迫力がとにかく愉快。

てなわけで埼玉県の草加健康センターに行ってきた。書くのがダルくなってきたのでまたこんど。

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カネコアヤノのレコードが届いた

あの日の、夏の野音の記憶がありありと蘇ってくる。夏。今から半年以上前は夏だったのか。信じられない。あの、夏。七月。セミがジリジリと鳴いていた、野音。ライブと共に陽が落ちていく。曲と曲の間に空白を、自然の音たちが埋めていく。曲の途中、ふと空を見上げる。ビルが、遠く周りにはそびえ立つ。やや無機質にも思える建物たちの間を、カネコアヤノの音楽が突き抜けていく。その爽快さ。この上を、ずっと行くと遠い宇宙の果てまで繋がっている。その真下に、カネコアヤノがいて、歌う。野音は音が広がる、というのが素晴らしい。地球にカネコアヤノという存在が、溶けていく。そして、その境界で、何もない無職である俺と、溶けそうな暑さと、この野音と、カネコが音楽をやっているという強烈な事実が、セミの鳴き声を媒質として、溶け合う。この、目の前で回転するレコードは記憶の再生装置だ。ここまで当時の心情、風景、記憶、全てが蘇るとは。その時、そのものを真空パックに詰めたみたいだ。あるいはフリーズドライ。お湯で戻して、そのまま食べられる。そう、そのままなのだ。全部鳴り響いている。全部。夏から、つまり一番極まっていた七月から、八月を経て、秋になり、よくわからん冬になり、そして気温の上昇と共に、春が来る。夏の手前の、手前。この循環によって何もかもよくわからなくなり、季節が一巡りしそうになる前に、また夏がやってきた。この、あの、野音の日を俺は一生忘れないだろう。暑さと溶け合いというタームによって繋がれた、俺だけの野音だ。俺はこの夏をこの先一生ずっと背負って生きていく。まさか、本当に季節が逆に巡るとは。時間は巻き戻る。記憶が巻き戻す。歓声が聞こえる!喧騒だ!そう、俺が求めていたのは喧騒だ。そしてその裏側にある静けさだ。

俺の求めているもの全てが、あの夏、2023年夏のカネコアヤノ日比谷野音ワンマンショーには、存在したいる。誰にもこの感慨はわかりはしない。俺だけの、野音だ。

そうっと、重いレコードを抱きしめる。

漕ぎ終えて

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大阪から東京までロードバイクで行った。

本当は24時間以内に行きたかったけど、結局3日かかった。悔しい。友達3人と出発したけど、あと2人は色々とトラブルに見舞われ、結局夕方に東京に着けたのは俺だけだった。集団で達成する喜びを味わえなかったのも悔しい。

今回の敗因は二つに大別できる

・準備不足(装備、ルート確認等)

・ペース配分ミス(休憩が長すぎる)

まず、準備不足から。初っ端、大阪を出発して四條畷市まではよかったのだが、清滝トンネルで迷った。迷った挙句、ペースの差もあり二手に別れてしまった。そこから伊賀越えでも迷い、延々と奈良を漕ぎ続ける事態に。道を間違えることはタイムロスに繋がるだけでなく、精神的負担にも繋がる。端的に、萎える。モチベーションが下がる。今回、俺だけ駿河健康ランドから単独で東京に行ったのだが、そこからのルートは事前に予習しマップにもメモしていたおかげでスイスイ漕げた。

また、なるべく止まってはいけない。止まると筋肉が硬くなり、身体も冷える。ゆえに再始動が大変になる。疲れやすくなる。しかし、何より大切なのは「流れ」ていることだ。何百キロ先の目的地。途方も無い距離。隣を時速70キロ台の自動車がビュンビュン飛ばしまくる。自分だけが、燃料を用いた原動機を使わず、ただ己の筋肉だけで前に進む。国道上で繰り広げられる圧倒的孤独劇の中で唯一信じられるのは、「漕いでいる自分」のみである。止まるとそれがなくなる。止まると、途方も無い距離の途方のなさがありありと想起される。そうなると動けなくなる。動いても長いままであるとの絶望感が筋肉痛と共に全身を覆う。

しかし、漕ぎ続けていれば話は別だ。漕ぐということは、前に進んでいるということを端的に示す現実そのものである。どんなに遠かろうと、漕いでいれば、ただペダルを踏み込めば、自分の座標と目的地のそれとが、線で繋がる。この漕いでいる自分の直線上に獲物がいるとの確信が、タイヤの底から、ペダルの表面から、足の裏を伝って湧いてくる。そうすると、もうあとは漕ぐだけだ。ひたすら漕げ。ゴチャゴチャ言わずに漕げ。しんどくなったら踏め。漕ぐ、とかじゃなく、ペダルをまっすぐ踏み込め!どんな坂であっても自転車から降りるな。踏め。ただ全体重を前に掛けて、踏み込め。ただ踏み込むことだけが未来への確信に変わる。あまりにも長い坂に出くわしたときは、前を見るな。坂の頂上を見つめると、脚が動かなくなる。「あんなところまで行けるわけがない」「まだこんなにあるのか」

 

下を向け。地面だけを向いて踏め。踏め。前を見て歩け、なんて世間では言うが、ときには足元だけを見る時間も必要だ。下だけを見て俯く季節が、人間には存在する。それは坂のときだ。坂は進まない。進まないけど下を向け。下を向いて、ただただ踏み込め。

 

世田谷を超えて、本当にゲロを吐きそうになった。なんでこんなことをしているんだ。身体がキンキンに冷えて腹の底から気持ち悪さが込み上げる。吐きそうだ。誰がゆるしてください。国道246号線を漕ぎながら、念じる。しかし誰も助けてはくれない。吐きたい。尋常ではなく苦しい。本当に助けてほしい。あと45分漕がないと目的地の秋葉原には着かない。胸の辺りにジワ、と絶望が広がる。寒い。本当に吐きたい。都会の雑踏、または渋谷の若者達が余計に孤独感を増幅させる。もう降りたい。降りたい降りたい降りたい。自転車捨てたい。吐きたい。

だが、着いた。着いたのだ。なんであろうと、漕げば着く。

諦めない心とか、負けん気とか、気合とか、根性とか、精神力とか、そういうのじゃ全くない。漕げ。ただ漕げ。

 

漕げば、着く。

 

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(ちなみにもう自転車で大阪から東京に行くのはこれで2回目だ。人生でこんなことを二度もやる必要は全く無いと、確信を持っていえる。)