豚骨丸

 去年の夏、スクーターで東京に行った。100ccでシルバー色のスクーターだった。台湾製で、たったの5万円ポッキリで購入。人生で初めて、自分で買ったバイクだった。

 買ってすぐの頃は公道を走るのが怖かった。夏休み、それも9月に、毎日、夕方頃家の周りを走ってみた。恐る恐る鍵を回しボタンを押すと、エンジンがかかる。立ち込めるガソリンの匂い。震える車体。ヘルメットを被り、顎紐を締め、スロットルを回す。バイクを始動させる一連の動作がたまらなく好きだった。これから普通ヒトが出すことのできない速度で動くんだ。エンジンが掛かるたびに、自分の中の何かがカチッと音を立てて変わるような気がした。こち亀の本田が白バイに乗るとああなるのも、うなずける。

 でも、一年ほどが経ったとき、売ることにした。なんで売ろうと思ったのか、あまり覚えていない。ちょっと、飽きたんだと思う。バイクは100ccながらブンブン走るし、何も不具合はなかった。二人乗りもできて小回りも効く。燃費もいい。何一つ文句はなかった。なかったけれど、だからこそ物足りなさを感じてしまった。買い手も見つかったので、最後に思い出作りがてら東京まで走ることにした。往復1000キロなのでキリも良いだろう。7月のあれは多分中旬だったろうか。突拍子もなく出発した。

 普通、旅には何かしらドラマティックな出来事が付いてまわる。今まではママチャリや鈍行列車、ヒッチハイク等で移動していたのでヒヤッとするイレギュラーな事態や偶然の出会い、ひたすら訪れる苦痛など色々と出来事が生まれた。しかし、この豚骨丸(勝手に付けたバイクの愛称)での東京までの旅は、恐ろしいほどに、それは、本当に、何もなかった。あまりに、普通だった。

 もちろん道中はキツかった。夜に出発したのだが、その翌日夜に人と会食の約束を取り付けていたので、なんとしてでもその時間までに東京に着く必要がある。だから、夜中もぶっ続けで走った。人気の無い山道、周囲がカッ飛ばす中京のバイパス、やたらと信号の多い国道等々。眠気は尋常ではなかったし、長時間連続でスロットルを捻りすぎて途中から手の形が元に戻らなくなったりもした。

 でも、どれも身を刺すような楽しさとはなりえなかった。ヘルメットを被ってバイクに乗ることはある意味、周囲の世界との断絶を意味する。ただ、切り離され、鉄の塊に乗って、ひたすら移動しただけだった。流石に眠気が我慢できなくなったので途中インターネットカフェにて仮眠を取ったが、翌朝再び出発し、昼過ぎには到着することができた。あまりに平凡な「大移動」だった。

 もちろんこの平凡さにはその時の精神状態も関係していただろう。楽しいことも何もかも全てを相対化してしまう、心の働き。本当の刺激から自分の身を謎に守っていた、あの意味不明な、2020。

 東京の道があまりにもややこしくガソリンスタンドに中々入れず一時間近く都内を無駄に走り回ったり、ガソスタのお兄さんが道を教えてくれ親切にしてくれたり、オイル交換が必要になって途中ドンキで工具とオイルを買ったり、コンビニ前でオイル交換をするも工具が潰れて失敗したり、トラブルに近いこともあったが、やはり淡々と走行距離は増え、休憩すれば疲労はすぐ戻った。平凡さはやはり続いた。いつからこうなってしまったのだろう。俺は、こんなにもつまらなくなってしまったのだろうか。

 東京から順調に西進し、奈良で友達と会ってラーメンを食い、大阪の実家に向かって出発した。そして生駒方面に向かって夜に車の灯が煌めき、信号もほとんど無い中、ただ走った。その時の感触はなんだか今も覚えている。あの暗さと静けさが、まだ肌から離れない。会いたかった人と会ったからなのだろうか。東京まで往復して無事帰られる、という達成感や安堵感からなのだろうか。生駒の山は初めての自転車遠出で行った場所だった。自宅からはウン十kmの距離だ。あの頃はまだスマホなど持っておらず、事前に家のパソコンで延々とGoogle MAPで下調べをし、経路を何度も何度も何度も何度も反復し、小分けにして大量に地図を印刷し、極め付けにはストリートビューで道を暗記しようともした。画面に映し出される未知の土地の画像はまるで夢の国だった。これから起こる何もかもにも胸が躍った。尋常ならざる好奇心と冒険心、そして原始的な興奮が全身を震わせた。

 あの頃に自転車を押して登った山道を、バイクで下った。10年も前のことなのに、なぜだか「通ったことがあるな」と直感した。あの時から、何が変わったんだろう。ガタガタ震える坂道にビビりながら、後ろからバンバン追い越されながら、その時の俺はきっとそう考えていた。去年の生駒がぼんやりと頭に残っているのは、きっとそういうことなのだろう。自分は、何に楽しさを感じているんだ。山の暗さがそう問いかけてくる。あれからもうじき一年が経つ。

 バイクはもう、手元に無い。

2021.6.19